ファッションはどこからやってくるのか。パリで開かれるファッションショーか、アパレル業界による今季の販売方針からか、ココ・シャネルのひらめきからなのか。ファッションは渇ききっているのか。もはや生み出される輪郭はないのか、限られた可視性の内側を回遊するだけなのか、僕たちの手から離れてしまったのか。 これらの問いはどうしようもなく正しい姿を晒しながら、身をひるがえすように間抜けな問いへと陰影を変える。その原因は問いの良し悪しというよりもファッションの性質によるものと思われてならない。あるスタイルにおいて最も洗練されたコーディネートが、違うスタイルに立って眺めた途端に、滑稽なほど不釣り合いで均衡のとれていない様をみずから露わにしてしまうように。
ファッションの隠喩が饒舌に喋りはじめるのは制服に限った場合ではない。あるデザイナーの思想をもとに展開された衣服を身に着けること、それがそのまま着衣者の意図を代弁することへ繋がってしまう事態が往々にして存在するのだ。着衣という行為が、体を覆いつくした衣服のざわめきが、僕たちを沈黙へと誘いこむ(あるいは逆の流れかもしれない)。これこそファッションにおいて言葉や批評の求められてこなかった大きな理由の一つではないだろうか。しかし黙っているわけにはいかない。今こそ語らなければならない。記さなければ。なぜなら衣装のための舞台装置として僕(あなた)の体が用意されたのではなく、僕たちが自分自身のために着ることを求めていたはずなのだから。勇気を持って。
いかなる定点も均衡も見いだしえず、無規定性の海に散逸してしまっているような存在、そのような存在をひとつのイメージで包みこみ、別の可能性をことごとく削ぎ落として、自分が限定されたこの自分以外のなにものでもないかのように思わせる力が、衣服にはある。(同書より)
本質を見誤るなと書物はくりかえし警告を促す。ならば湧きあがってくる感情を胸にとどめよう。理論で心を武装する時だ。“装う”という逆説のレトリックで衣服への抵抗の切り口を携えておくために。ファッションの言説を取りまく「どこか良い感じがする」、「らしさのある服作り」、「素晴らしいセンス」という既視感のある文字の羅列は、もはや何を伝えるわけでもない。だからこそ過剰なほどきらびやかに飾り付けられたランウェイと民事再生法の審判を待つ名前の知られたデザイナーズブランドの対照、その不穏さの一面をもっと地に足のついた言葉で明らかにしたいと考えている。まずは「良い感触の根拠を見定めること」、「らしさを分節し理解すること」、「目に映らないセンスに形を与えること」から始めてみよう。
<わたし>は衣服をというより、むしろひとつのイメージを、表象を身にまとうのだ。(同書より)
ファッションのために記すこととは、ファッションについて語る言葉を持つということ。それはモード現象学と苦闘の末に紡ぎだされた一節を借りてこう言い換えられる。<わたし>は表象をというより、むしろひとつのテキストを、記述を身にまとうのだ、と。
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