2015年1月25日日曜日

退屈をやりすごす1つの方法


『さらば青春の光』という映画を見たのは、
ちょうど一カ月くらい前のことだった。


60~70年代イギリス、
湧きおこるユースカルチャーシーンのさなかにあった少年の物語。

三つボタンのモッズスーツに身を包み、
ロックバンドのThe Whoに没頭する主人公。
彼は夜な夜な安いドラッグをキめて、町のクラブからボンボンの実家、
めったに開かれることのない港町のライブイベントなど、
パーティーが開かれていると場所を聞けばどこでも関係なく、
べスパにまたがり友人とやかましく繰り出し続ける。

ダサい連中とポップスを嫌い、酒と可愛い女の子と最新のレコードに夢中。
たむろし騒いでどうしようもない無茶をする。
先のことなんか気にしない。だって、そんな事を考えたってしょうがないから。


映画のなかで主人公の服装は一時的な流行としてではなく、
主人公の生き方(と同時にそれにたいする欲求)として描かれる。
それこそが大きな問題だ。



物語の背景にあるのは階級社会。
特に大衆の大部分が属していた労働階級の閉そく感だと思う。

自分の属する階級によって生涯を通して得られる給料や
人生設計(そんな進んだ考えがあるとは思えないけれど)、そして将来。
人生のすべてを周囲の環境から明らかに想像できてしまい、
また、事実として大半がその通りになってしまう。
そんな恐ろしい事があるだろうか。

しかし、だからこそイギリスという国では、
大きな仕事を成し遂げて誰かによって決められた繰り返しのループを抜け出すために、
もしくは単純に自分の不満をまき散らすために生まれてくる新しい表現の方法は
尽きることを知らないのではないだろうか。


事実として音楽だけを取って見ても、モッズ、ロッカーズ、パンクなど、
その時代の体制や権威に対するカウンターとしての文化が
形を変えながら次々と生まれてきた。(メトロポリタン美術館でパンク展がスタート


ロンドンコレクション(ロンドンコレクション2014春夏)で言えば、
他の都市に比べて実験的な洋服デザインを発表するショーが多く存在し、
ときにはファッション以外の領域に対する政治的なアピールも行われる事で有名だ。
言うなれば商業的な面よりも、新進気鋭のデザイナーを見出す場として
受け止めらている部分が大きいように思う。



また少しだけ映画の話へ。

この映画の中には葛藤するひとりの平凡な少年の姿が残されている。


派手に繰り広げられる夜の生活に比べ、
昼の時間の描写はどうしようもなくみじめで、ジメジメとしている。

専業主婦の母親はクラブから帰って眠りについた少年を、
いつまで寝ているのかと叩き起こし、郵便配達員の父親は
日々の鬱憤を晴らす相手として息子を口汚く罵倒する。

モッズを信仰する仲間の内では一目置かれる主人公も、
家ではただの放蕩息子でしかないし、
やっていることは結局不良のそれと変わりないのだと言わんばかりに…。


2015年の日本。時間と場所が変わっても若者の自意識にまつわる関心は
ほとんど変わらないと思うし、人自体もそう簡単には変わらない。
しかし、当時のイギリスほど階級の問題が表に出てきていないこの国では、
自分を他人と区別する方法なんていうものは、
そこまで気にする必要がないのかもしれない。

でも、洋服を通り抜け、透けて浮かんだ生きざまを目にする時、
あまりにも人間的な不器用さを映し出しているようで、とても魅力的だと思う。







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