2012年5月23日水曜日

人と衣服の行き違い(3)【実践――東京大学服飾団体fabの場合】


服飾と経済

ファッションの実体のなさというか、さまざまな仕方で提示されてしまうから、どうやって扱っていいか分からない、と。このことは、ファッションが、絶えず価値の剰余を生成し、さまざまな経路で交換していく資本主義のプロセスに最もマッチしたジャンルのひとつであることと、本質的に関係していると思いますね。

ファッションと経済が取り結んでいる分かちがたい紐帯を指摘した批評家千葉雅也の言葉。

ルイ・ヴィトンを傘下に置くフランスのコングロマリット( conglomerate: 対象とする市場や自社に直接関連性のない事業を抱えた複合企業のこと) LVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)に始まり、プラダグループ、国内で言えばリンク・セオリー・ホールディングスなど。ひとりの人間の人生を容易に凌駕する大資本はファッション業界の動向を支える原動力である。

デザイナーの作家性に言及する時も金銭による制約を避けて通ることはできない。片や直接的により多くの収益を獲得するために媒体としてファッションを利用するデザイナーがいれば、自分の感性にしたがって作品を生み出し、人間の審美眼を問い続けるデザイナーもいる。しかし、後述したような資本から遠ざかろうとする指向が、図らずも遠ざけたものに親和性を帯びてしまうという矛盾。それが興味深い。

ファッションの世界では、ニューヨークとパリとロンドン、ミラノもそうですけど、全部が繋がっているんです。そこで勝負する人たちにとっては、「出世の階段」みたいなものがあって、新人がロンドンで実験的なことを始めて、パリのモードで洗練されて、そこで成功した人がニューヨーク行っていちばん高いギャラをもらうっていう流れがある。(林央子/Hayasi Nakako インタビュー http://www.web-across.com/person/d6eo3n000001w07f.html



1990年代からの情報改革によって整備されたインターネットインフラストラクチャーはハイファッションブランドの服作りに良い意味でも悪い意味でも均質化をもたらした。資金提供元の企業はこの閉塞感を打ち破るために様々な方法論を採用したが、中でも特に注目すべきなのは現代アートを積極的にブランドイメージの宣伝に援用した点だろう。

すぐに想起されるのはルイ・ヴィトンと村上隆の合作。さらにルイ・ヴィトンは2011年に表参道店7階に現代アートの展示会場を開設した。バレンシアガはアーティストのドミニク・ゴンザレス=フォスターに、デザイナーのニコラ・ゲスキエールとのコラボレーションによるコンセプトショップの設計を依頼し、2003年前後に、パリ、ロンドン、ニューヨーク店などで、サイトスペシフィックな内装を実現させた。直営店におけるアート・イン・ショップの草分けであるコム・デ・ギャルソンは2009年、大阪店の2階にアートスペース「Six」をオープン。(『拡張するファッション』)

 

 

二極化をひも解く手がかり

宣伝に用いられたのは単純にアートと呼ばれる分野だけではない。ファッションとアートの境界線を跨いだ活動を展開していたマルタン・マルジェラやヴィクター&ロルフ、ヘルムート・ラング。目に留まりやすいアイコンとして経済の影響を表面上には感じさせない「擬作家主義」的なブランドも戦略に取り込まれていった。

独立した創作活動と経済が交わった所に何が導き出されるのか、というのは粗末な問いかもしれない。マルタン・マルジェラ本人はブランドに資本が注がれてから数シーズンを経て、メゾンを去った。ヴィクター&ロルフは初期においてこそ実験的な服作りを展開していたが、現在はオンリー・ザ・ブレイブ社から投資、経営面や生産面のサポートを受けコレクションを発表する名実ともにファッションのブランドとして定着した。深く事情を知らない者にも主流に対して反抗的な創作を続ける難しさは否応なく伝わってくる。

では、経済か純粋な創作か、という二極化の構造を解体する手段とは?

抽象的な認識であったファッションの資本主義が実像を伴って目の前に現れるバラエティ番組の私服公開のコーナーや、不必要に膨張した服飾雑誌の厚み。コンテンツの内容以上にスペースを割かれた広告面は潤沢な資金力の象徴であり、また次の頁へ指の移動を辟易とさせる種でもある。あなたはそのスタイリングが意図されたものだと知っている? そのメイクが意図されたものだと知っている? その発言が、体型が、そして間隙が僕たちは無防備に晒されすぎていると示唆しているにも関わらず。

もはや生活の隅々に浸透した経済のダイナミズムを超越しようとあくせくするより、それを乗りこなしながらどう生き延びていくのかへ思いを巡らせる方が僕たちの行儀に適しているのは明らかだろう。目を向けていないだけで界隈は活発に動いている。

 例えばロンドンでノーギャラで『i-D』とかでファッションフォトを撮っていた人が、明日にはニューヨークの大御所カメラマンになるかもしれない。そういうサクセスストーリーが現実にあるんです。でも、日本はその流れにはまったく入ってないんです。(上記インタビューより)

ファッションと経済の地理的な布置から見て辺縁にある日本。この場所から発信できる可能性について考えてみたい。

 

 

実践――東京大学服飾団体fabの場合

 

instrumentation/restriction”Ryutaro Sakae

201251213日。東京メトロ神保町駅から歩いてほど近い都心のエアポケットにて、東京大学fabの展示会<demonstration>が催された。幅2m奥行き8mほどの細長い更地に設営された展示空間。設置された展示物は総数にして4体。さらに服としての実用性を備えた作品においては1着にまで絞られる。

入口以外の面を建造物の外壁に覆われた手狭な会場の全体図、展示された作品数の少なさは、当初、困惑を覚えるほどであった。しかし、なるほど。この展示会には必然性があると実感したのは会場の入り口で要旨を印刷したパンフレットを受け取り、目を通した時のことだ。以下、配布されたパンフレットより一部引用。

あらゆる土地の占有には意味が伴う。

一時的/永続的)な占有(=所有)のために境界線(/)が設定されると、(わたしの/だれかの/みんなの)土地は(滞留/移動)を、わたしたちに促す。しかし、(一時的/永続的)な占有は、それが(合法/非合法/違法)であれ、対立がうまれることを免れない。

一方、(一時的/永続的)で(合法/非合法/違法)な占有は、占拠となり、(演繹的/帰納的)に直接民主制としてのデモンストレーションとなる。そこでの主張の正当性は、(あつめられる/あつまっている)人数によって担保される。

それでは(一時的/永続的)に、(合法/非合法/違法)に土地を占有することはどうだろうか。例えばコインロッカーやコインパーキングのような時間貸しの場所を占有することは、どのような意味を持ちうるだろう。

惹きつけられたのは展示会のコンセプトが、前提が正しいなら必ず結論も正しくなるという演繹的推論の過程から引き出されている部分。つまり論理の視座に依っているところだった。

Rice paper”Risa Kono
論理学の体系がことばとことばの関係に厳密な論証を求めるため、その手順にかなって導き出された結論/本展示会の要旨はファッションが抱える数の障害――ファッションショーの一回性の問題、ショーのたびに何十体ものルックを披露しなければならない問題――を克服する。学問の見地からファッションへ働きかける方法を用いることで、発案から完成した作品までを貫く彼らの主張が妥当性を有するものであるとデモンストレート(de(完全に)+monstr(示す)+-ate)してみせるのだ。

土地にかぎりのある島国の小ささ・少なさ・狭さといった不安要素。彼らの試みはそれらに長い年月を費やし、前向きな概念にまで咀嚼した異邦の特性を、裏付けされた理論に基づいて提示したと解釈できる。戦後の復興期に進められた後追いの法整備で時代から取り残された路地の隙間。登記法の網の目に浮かびあがった空き地を利用して行われた本展示会は、抜け目なく見えたファッションの資本主義に内在する欠落を指摘していた。

ファッションへの立ち居場所を明確にすること。自分が振りまわされない経済の規模を把握すること。ありとあらゆる事象に開かれた布地へ価値ある囲いを与えた時に初めて、想像もしていなかったファッションの姿形が輪郭として切り出されるのではないだろうか。


0 件のコメント:

コメントを投稿